2020年国内プロゴルフツアーの現状
2020年のプロゴルフツアーは、ツアーを生活の糧とするプロゴルファーにとってかつてない試練の1年でした。
特に日本の男子ツアーは、2020年シーズンで予定されていた23試合の内、開催されたのが9月の富士桜CCで行われたフジサンケイクラッシックと、10月に千葉県の紫カントリークラブすみれコースで行われた日本オープン、毎年秋から始まる国際トーナメントの三井住友VISA太平洋マスターズ、ダンロップフェニックストーナメントと、最終戦のゴルフ日本シリーズJTカップのみとなりました。
一方、国内女子のトーナメントは8月に開催されたNEC軽井沢72ゴルフトーナメント以降、最終戦のリコーカップまで殆どの試合が開催され、試合数は13試合で男子は僅か5試合に終わりました。
国内は男子・女子ともに2020年は2021年と統合された事により、2020年の年間賞金王の決定は今年に持ち越されました。
2020年の賞金ランキングを見てみますと、男子のランキングトップは稲森佑貴選手で獲得賞金額が4111万円となっており、女子のランキングトップの笹生優花選手の獲得賞金額が9389万円ですから、男子の試合数と賞金額ではツアープロとして生活するのに苦しい現状となっています。
男子ツアーの盛り上がりがなくなり始め、スポンサーの撤退が相次ぎ、毎年30試合以上あった試合が2007年以降25試合前後となっています。2021年は24試合が予定されており、2020年と統合となりますので、全試合開催されれば賞金王は1億円越えとなるでしょう。
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日本経済安定成長期での右肩上がりの日本国内男子ツアー事情
日本ゴルフツアー機構(JGTO)の発表では、1973年からツアー制度が始まり賞金王が設けられ、初代賞金王はジャンボ尾崎こと尾崎将司選手。年間5勝して初代賞金王に輝いています。2位は同じく5勝している青木功選手。
ジャンボ尾崎選手が稼いだ額は、5勝しても4300万円ほど、その年で賞金総額が破格なのが太平洋クラブマスターズで総額9000万円でした。ジャンボ尾崎選手は翌年も年間6勝して、2年連続で賞金王となり、手にした賞金額は4100万円。
1973年に始まったツアー制の初年度は31試合行われ、賞金総額が約4億7600万円でした。1977年までの年間試合数は殆ど変わりませんが、賞金総額は年々増えて、5年後の1977年は約8億5900万で倍近くになっています。
日本経済が安定成長期に入る中、ジャンボ尾崎選手の活躍により、賞金総額も年々増えていった背景があります。
そして1975年に中嶋常幸選手がプロ入りし、日本男子ツアーの黄金期を迎えます。1976年に青木功選手が初の賞金王に輝きますが、僅か1勝での賞金王で、その年3勝したジャンボ尾崎選手より倍近く稼いでいますので、上位に入った試合が多かったのでしょう。勝った試合は東海クラッシックでした。
国内男子の試合数が初めて40試合を超えたのが、1980年です。70年代、80年代はA・O・N全盛期で1978年に2度目の賞金王に輝いた青木功選手が4年連続賞金王となりました。
1978年の年間試合数は37試合で、青木功選手は6勝、賞金総額は6298万円でした。この年のトーナメントでの賞金総額は9億4275万円でした。1試合当たりが約2550万円ですから、効率的に稼いだと言えるでしょう。
当時は賞金総額が1億円を越える試合はまだなく、5000万円を超える試合が4試合で、中日クラウンズと太平洋クラブマスターズ、日本オープン、ダンロップフェニックスだけでした。
当時は地方で行われる大会も賞金王への対象に含まれており、賞金総額が500万に満たない試合も数試合ありました。ビックトーナメントを制しなければ賞金王は難しい現状で、青木選手はこの4試合のうち中日クラウンズで優勝を飾っています。
年間40試合を超えたのが、1980年で年間賞金総額が初めて10億円を突破しました。1980年は青木選手が賞金王となったわけですが、優勝賞金総額が6053万円で年間5勝となっています。
優勝賞金総額が年間で1億円を突破した最初の選手は、中嶋常幸選手で1985年に1億160万円で賞金王となり、1985年は年間試合数が40試合、賞金総額17億5300万円で中嶋選手は年間6勝で賞金王に輝きました。
1980年代と90年代の国内男子ツアーの賞金王は青木選手→中嶋選手→尾崎将司選手の順に王座についています。
1980年から1999年までで、3選手以外の賞金王は1984年の前田新作選手で年間3勝(中嶋選手7位、青木選手8位、尾崎選手19位)、1987年デビッド・イシイ選手が年間6勝で賞金王(尾崎選手2位、青木選手5位、中嶋選手13位)1991年に尾崎直道選手が年間4勝(中嶋選手3位、尾崎将司選手4位、青木選手5位)、1993年には飯合肇選手が年間3勝で同じく3勝した尾崎選手とは僅か412万円差で賞金王となりました。3位には中嶋選手が入っています。
1999年は尾崎直道選手が1991年以来2度目の賞金王となりましたが、圧巻なのは1988年に11年振りに賞金王に返り咲いた尾崎将司選手から、1999年の尾崎直道選手までの12年間の賞金王の座はジャンボ軍団が独占しています。
ジャンボ尾崎選手は12年間で5連続と3連続を含め9回の賞金王に輝いています。日本の国内ツアーと言えどもすごい記録となっています。
アメリカツアーと比較すると、やはりタイガー・ウッズ選手がその後約10年後の1997年にPGAツアー初の賞金王となり、その後13年間で4連勝1回、3連勝1回の計9回の賞金王に輝いています。主戦場の違いはあれ両者の凄さは抜きん出ています。
国内男子ツアーはA・O・Nとジャンボ軍団の活躍で、人気を博し1988年には男子トーナメントの賞金総額も初めて20億円越えをして、5年後の1993年には約倍増の40億円越えとなっています。
年間の試合数の推移を見てみますと、1980年に40試合を初めて超えて42試合、1981年が45試合、1982年には46試合となりピークを迎えます。その後は40試合前後となりますが、賞金総額は年々上がって行きます。
1990年には30億を超えて、3年後の1993年には40億円を超える事となります。その後数年間は40億円前後で推移し、年間の賞金総額が1番多かった年は1993年で41億8500万円となりました。試合数が39試合ですから、1試合あたり約1億700万円となります。
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バブル経済がはじけた後の日本国内男子ツアー事情
1993年に賞金総額のピークを迎えた、日本国内男子ツアーですが、日本経済の衰退とリンクします。
1973年にツアー制が導入された日本国内男子ツアーですが、20年間右肩上がりに成長を続け、日本経済のバブルが崩壊後のその余韻とジャンボ尾崎選手が国内男子ツアーを牽引し、丸山茂樹選手をはじめとする次の世代へと引き継ぐ事ができ暫くの間は試合数、賞金総額も横ばいとなっていました。
賞金総額は横ばいでしたが、個人が稼ぐ賞金額は1試合あたりの賞金額が上がった事と勝利数によって更新されます。
1試合での賞金総額が初めて1億越えしたのは、1983年で今でも開催されている国際試合のダンロップフェニックスが総額1億円、もう1試合がスポーツメーカーのゴールドウィンがスポンサーとなって開催された日米対抗戦で1億560万円となりました。
日米対抗戦が1984年に終了してからは、賞金総額1億円以上の試合はダンロップフェニックスだけでしたが、1988年には3試合となり、1989年に7試合に増え、1990年には倍近い13試合まで増えました。
最初に賞金総額1億円に達したダンロップフェニックスは2億円に到達しています。ダンロップフェニックスの賞金総額は現在でも2億円となっています。
正に日本経済が絶頂の時に1試合の賞金総額も天井を迎えたわけです。
賞金王が稼いだ賞金額で2億円を突破したのが、1994年に7勝したジャンボ尾崎選手が2億1千500万、1996年にも8勝して2億960万稼いでいます。
日本国内の男子トーナメントをサポートするスポンサーは、A・O・Nの活躍と特に尾崎3兄弟とジャンボ軍団の活躍によりテレビ放映などの宣伝効果が見込め、観戦の集客が見込める試合は賞金総額を年々上げていきました。
国内男子トーナメントの人気と賞金額は、A・O・Nが造り上げてきたと言っても過言ではない事がデータによって証明されています。
A・O・Nの後継者として石川遼選手が期待されましたが、データ上は石川選手が高校生でマンシングウェアオープンKSBカップで優勝し、翌年にプロ入り2009年には賞金王となりましたが、2007年には年間試合数が24試合まで減り、その後も試合数が増えることはありませんでした。
賞金総額で言えば2008年は効果があったのか、2007年に比べ6千万程の上積みがありましたがその後増えることはありませんでした。
テレビ放映が全盛の時代には、ゴルフトーナメントのスポンサーとなり冠があれば大きな宣伝効果があったのでしょうが、スター選手不在の国内男子ツアーはまだまだ厳しい時代が続くかもしれません。